自分を愛するということ

人生を変えたいと願う時に、出会う言葉がいくつかあります。

その中に必ず入っている言葉が、「赦すこと」と「自分を愛すること」です。

 

自分を傷つけた人や出来事を赦すこと。

誤った判断を下した自分自身の未熟さを赦すこと。

そして、心が痛むような出来事が自分の人生に起こってしまった運命そのものを赦すこと。

 

心から納得して「赦す」ことは簡単ではありません。

けれども、いつまでも同じ場所にとどまりたくないと思うとき、前を向いて再び歩み始めたいと切に願うとき、「赦す」ということを避けることはできません。

それはきっと、「赦すこと」が「受け容れること」に繋がるからだと思います。

「起こるべくして起こったことなのだ」と、心から納得して受け容れられたとき、その経験から学ぶべきことが何だったのか、私たちははっきりと理解することができます。

そして責める気持ちは消えてなくなってしまっています。

 

「自分を愛する」という言葉に出会った時、「よくわからないな」というのが正直な感想でした。

謙虚さや慎ましやかさを重んじる日本の文化のなかで育った私にとって、「自分を愛する」という考え方には違和感を感じずにはいられませんでした。

何かや誰かを好きになったり、大切に想う感情は、自然と湧き上がってくるものであって、自分の意志でコントロールできるものではないと思うことに加えて、「自分自身を愛する」ということは、間違った自己主張やわがままの言い訳ように感じていました。

 

私には同じ年齢で、同性のいとこがいます。

私より6ヶ月先に生まれた彼女は、物心ついた時にはすでに私の人生に存在していました。

親同士の距離が近かったため、私の日常にはいつも彼女がいました。

 

彼女は容姿にとても恵まれていました。

それに加えて、物怖じせずに大人と話すことができる人懐っこさも持ち合わせていて、小さい頃からいつでも人の輪の中心で輝いていました。

それだけでなく、名前すらも昭和生まれには珍しい外国の名前のようなオシャレな響きで、「たくさんのものを持ち合わせて生まてくる人は、名前もかわいいのか」と子供心に不満に感じたことを覚えています。

 

そんな彼女の隣にいなければいけなかった私は、残念な容姿をしたとても卑屈な子でした。「せめて年がすごく離れていたら良かったのに」と何度思ったことかわかりません。

 

「自分のことが嫌い」という意識がはっきりと芽生えたのは、小学校の低学年の頃だと思います。

「あの子のように生まれていたらよかったのに」という思いは、「どうせ私なんか」という諦めに見せかけた「開き直り」と「怒り」に変わっていきました。

 

高校一年生になった頃、耳にピアスを開けることが友達の間で流行りました。

私もピアスを開けましたが、両親が厳しかったので見つからないようにしないといけないとヒヤヒヤしながら過ごしていました。

けれどもバレないわけがないのです。結局すぐに母に気づかれ、「これは怒られるな」と思いました。

 

けれども母から発せられた言葉は意外なものでした。

「ピアスをすることが、自分の容姿を好きになる理由の1つになるのならいいんじゃない。生まれ持ったものに何も手をかけないで、自分に満足している人なんてそんなにいないんだから。」

 

キラキラと輝くいとこの隣にいることは惨めでした。

けれでも「どうせ私なんか」という言葉を印籠のように掲げ、自分が何を持ち合わせて生まれてきているのか見ようとしていなかったことも事実です。

 

「自分を愛する」という言葉の意味がわからず間違った解釈をしていた時、母のあの時の言葉を思い出しました。

 

生まれ持ったものだけで輝くことができないのであれば、それは磨く必要があるということ。

そして、自分が持っているものにたくさんの愛情と手をかけて、大切に扱うこと。

それが「自分を愛する」という言葉の意味に繋がるのではないかと思いました。

 

 

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参考:

*① *②

シャンドゥルールホームページより

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